各界から熊本同友会会員へ向けた熱きメッセージ
城下町明暗 熊本と和歌山
私は、今年の6月、人事異動で熊本市に来ました。熊本に来て、最初に感動したのが、上通り・下通り・新市街の中心商店街の広い通りと人の賑わいです。全国的に商店街の空洞化が指摘される中で、このように賑やかな商店街があったのかという思いを強く持ちました。それとともに頭に浮かんだのが、なすすべもなく衰退の一途をたどっている私の郷里の中心商店街のことです。
私は高校まで和歌山市で育ちました。和歌山市の中心商店街は「ぶらくり丁」として知られています。江戸時代後期にできた商店街で、店先に商品をつるす=ぶら下げるという言葉の方言「ぶらくる」から「ぶらくり丁」という名前が付いたとも言われています。250店から300店程度の店があります。私が小学生の頃は、「ぶらくり丁」の一角にある地場の老舗の百貨店の食堂で食事をし、屋上の遊具で遊ぶのを楽しみにしていました。昭和50年代でも、地場の老舗の百貨店や大丸百貨店の支店など3つの百貨店やショッピングセンターが商店街の一角に店を開き、賑わっていました。
ところが、平成10年に大丸百貨店の支店が閉店、13年には、地場の老舗百貨店が自己破産、同じ年には大手ショッピングセンターが撤退。中核店舗がなくなったことから、現在も「ぶらくり丁」の空き店舗率が20%を超えているようです。人通りも平成15年には、平成12年の4分の1になり、現在は少し回復したとは言え、平成12年の半分以下に減っているという調査結果が出ています。どうしてあっという間に衰退してしまったのか。地場の老舗百貨店の自己破産は、バブル期にビルの建て替えを行ったものの売り上げをうまく伸ばすことができず、債務の負担に耐えられなくなったためとされています。もともと「ぶらくり丁」は交通の便がよくありません。和歌山市の2つの鉄道のターミナルから離れていていました。(JRの駅から約2キロ、私鉄の駅から約800m)昭和46年に二つのターミナルを結ぶ路面電車がなくなってからは、路線バスが、商店街への公共の足でした。モータリゼーションが進む中でも、「ぶらくり丁」周辺では大型駐車場が増えず、一方、市の郊外には広い駐車場を完備したショッピングセンターがあいついで開店していきました。日本各地で中心商店街の空洞化は起きましたが、和歌山市では特に顕著に現れたのでした。和歌山市には、来年さらに郊外にショッピングセンターがオープンする予定です。
実は、熊本市と和歌山市は、かつては都市として似たような歩みをしていた時期もあったのです。江戸時代、熊本は肥後藩54万石の城下町。一方、和歌山は徳川御三家の一つ紀州藩55万石の城下町でした。明治22年に熊本・和歌山ともに市制を施行。当時は両市とも人口は5万人台でした。戦後の混乱がひとまず落ち着いた昭和25年では、熊本市の人口は26万7千人で、和歌山市が19万1千人と、熊本市を一回り小さくした都市だったのです。熊本市は今や政令指定都市となり人口も約74万人になっているのに、かたや、和歌山市は、昭和60年の40万人をピークに人口は減少を続け、現在では37万人を切るまでになっています。
熊本に来て、4 ヵ月。仕事への行き帰りや休みの日に、熊本市の中心商店街をよく歩きます。時折、閉店の案内が出ていたり、貸店舗の案内が出ていたりするのを目にします。何らかの事情があっての閉店でしょうから、それぞれの店の方々も大変苦労をしながら商売をされているのだと思います。ただ、元気な熊本市の中心商店街には、和歌山市で起きたようなことは起きないで欲しいと切に願っています。
2013年11月号掲載
NHK熊本放送局 局長
土井 郁夫
昭和33年12月和歌山市生まれ。57年東京大学法学部卒業。57年NHK入局(記者)、岐阜放送局。62年名古屋放送局。平成4年本部・報道局。9年松江放送局。11年本部・報道局。24年大阪放送局。25年6月熊本放送局
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