各界から熊本同友会会員へ向けた熱きメッセージ
「不易流行」
私の故郷水俣市は、山には湯の鶴温泉、海には湯の児温泉や福田観光農園などの自然の観光施設がある温暖な気候に恵まれた風光明媚な地域で、訪れる人の憩いの場所として親しみ喜ばれています。また、市民一人ひとりのエコに対する意識が非常に高く、これまでの実績と今後の取り組みの提案が評価され、国の環境モデル都市にも認定されております。
私が育った昭和30年代の水俣市は、「窒素水俣工場」(チッソ)の城下町として栄え、多くの地場の中小企業もその恩恵を受けており、後の水俣病の発生は誠に遺憾ではございますが、当時の市街地は非常に活気に満ち溢れていたように思えます。チッソには有名大学を卒業された優秀な技術者や人材が多く、そのためご子息も聡明な方ばかりで、田舎者の私はいろいろな面で良い刺激を受けていたのではないかと今になって想い返し感謝している次第です。このような環境で学業の面においても自然に競争意識が醸成されていたのか、私が卒業した水俣第一中学校は基礎学力が高く県下でも優秀な生徒を輩出した学校だったと聞いております。
高校、大学と水俣市を離れ、昭和43年3月に東京の私立大学を卒業しましたが、当時の日本は景気が良くなく就職難の状況で、まさに今日の経済環境と同様でありました。そのなかで、ようやく地元水俣の水俣信用金庫に就職が決まりました。(その後、昭和46年11月に「有明信用金庫」と合併して熊本中央信用金庫となる)そのとき、生まれ育った水俣に就職でき、心からほっとした心境は今でも鮮明に覚えております。
入庫した頃は、毎日お客様を訪問し「日掛け」「月掛け」「売り上げ」集金をするのが主な仕事でした。お盆や正月前になるとお店の売り上げが多くなり、一日に2回3回と鞄一杯に集金したこともあり、当時の商店街の活況が懐かしく思い出されます。新米職員時代は先輩方にずいぶん迷惑をお掛けしたものです。窓口は今のように機械もなく殆どが手作業であったため、女性職員は優秀で手際も良く仕事に対しては厳しい方ばかりでした。今風に言えばO.J.Tですが、その当時、先輩が金融機関人としての基本を叩き込んで頂いたお陰で今の私があると感謝しております。
また、金庫には私が入庫する前から掲げられている金庫の「基本方針」と「経営方針」があります。おそらく半世紀位は経っていると思いますが、現在でも何ら違和感がないものだと誇りを持っております。勿論、金庫経営の柱であり役職員は暗記しており研修や会議等、機会あるごとに唱和しております。
(基本方針)
良い家庭、良い企業、良い社会の育成発展のために、金庫の総力を結集し金融の円滑をはかる
(経営方針)
1.健全経営を維持し会員ならびに預金者の保護に万全を期する
2.貯蓄の増強に努める
3.地域経済開発を目指し積極的なる融資を図る
4.経営の合理化と事務能率の向上に努める
5.職員の福祉を増進すると共にその資質の向上に努める
企業経営において人づくり、組織作りを行ううえで基本がいかに大切か判りきったことではありますが、私自身、周りの環境や上司・先輩に恵まれ、知らず知らずのうちに基本が体得出来たのではと今更ながら感謝しております。環境の変化が著しい時代にあって、「不易流行」と言われるように、守るべきものと変えるべきものの判断は、経営にとって非常に難しいものがあります。しかしながら、どんなに時代が移り変わろうとも基本に変わりはなく、基本があって守るべき(不易)ことと、変えるべき(流行)ことがあると思います。私自身、迷ったときは基本方針と経営方針を念頭に置いて判断しております。
手前勝手な回顧録のようなことばかり書きましたが、私を育てて頂いた故郷水俣に感謝しつつ、信用金庫人として今後も微力ながら地域社会の発展に貢献できればと考えております。
2010年8月号掲載
熊本中央信用金庫 理事長
渕上 健一
昭和19年4月11日生まれ、熊本県水俣市出身、済々黌高校-青山学院大学卒、43年水俣信用金庫入庫、八代支店長、水俣支店長、本店長を経て平成10年常勤理事、14年常務理事、18年6月から現職
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